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高知地方裁判所 昭和47年(ワ)619号 判決 1982年10月28日

原告

岡林糸美

原告

岡林功

原告

西岡恒

原告

西岡義夫

原告

西岡民江

原告

伊藤千恵子

原告

伊藤隆裕

右法定代理人親権者母

伊藤千恵子

右七名訴訟代理人

土田嘉平

梶原守光

山下道子

山原和生

被告

右代表者法務大臣

坂田道太

右指定代理人

川上麿姫

外五名

被告

高知県

右代表者知事

中内力

右訴訟代理人

中平博

外五名

被告

土佐山田町

右代表者町長

小野進

右訴訟代理人

氏原瑞穂

外一名

主文

一  被告高知県、同土佐山田町は、各自、

1  原告岡林功に対し、金七三二万六六六六円及び内金六六六万六六六六円について

2  原告西岡義夫、同西岡民江に対し、各金三六六万三三三三円及び各内金三三三万三三三三円について

3  原告伊藤隆裕に対し、金一三五六万三三三三円及び内金一二三三万三三三三円について

いずれも昭和四八年一月一二日から完済まで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告岡林糸美、同西岡恒、同伊藤千恵子の、被告国、同高知県、同土佐山田町に対する各請求は、いずれもこれを棄却する。

三  訴訟費用中、原告岡林功、同西岡義夫、同西岡民江、同伊藤隆裕と被告高知県、同土佐山田町との間に生じたものは同被告二名の負担とし、原告岡林糸美、同西岡恒、同伊藤千恵子と被告国、同高知県、同土佐山田町との間に生じたものは同原告三名の負担とする。

四  この判決は、第一項記載の各金員のうち、

1  原告岡林功においては金二四〇万円

2  原告西岡義夫、同西岡民江においては各金一二〇万円

3  原告伊藤隆裕においては金四五〇万円

の限度において、それぞれ仮に執行することができる。

事実《省略》

理由

第一請求原因一項の事実(本件災害の発生。但し、本件災害当時、臼杵団員の救出作業に従事していた消防団員らの人数を除く)及び同二項の事実(原告らの身分関係等。但し、亡伊藤和正、同伊藤重子が本件崩壊地前の国道上にいたとの点を除く)は、いずれも当事者間に争いがない。

第二そこで、請求原因三項(被告国及び被告県の賞じゆつ金又は特別ほう賞金の支払責任)について判断する。

一請求原因三項1ないし3の各事実は、いずれも当事者間に争いがない。

二そこで、同項4ないし6の主張について判断する。

1原告岡林糸美、同西岡恒、同伊藤千恵子(同原告三名を以下この第二においては「原告三名」という)は、まず、亡岡林勝美、同西岡實、同伊藤芳は、いずれも土佐山田町消防団の指揮官からの要請に従つて臼杵団員の救出作業に従事中に犠牲になつたものであるから、右亡岡林らの遺族に対しても、公設の消防団員等の遺族に対してと同じように賞じゆつ金が支給されるべきであると主張するので、この点から検討する。

賞じゆつ金は、消防表彰規程五条、六条(消防庁長官が支給する場合)、高知県消防表彰規程四条、五条(県知事が支給する場合)に基づいてそれぞれ支給されるものであるが、要するに、公設の消防団員等(消防組織法一二条にいう消防吏員及び同法一五条の二にいう消防団員)が、災害に際し一身の危険を顧みることなく職務を遂行して傷害を受け、そのため死亡し又は廃疾となつた場合において、その多大の功労により消防庁長官(消防表彰規程に基づく場合)又は県知事(高知県消防表彰規程に基づく場合)から一定の特別な表彰(消防表彰規程四条一ないし三号に該当する表彰又は高知県消防表彰規程三条一、二号に該当する表彰)を受けた場合に、消防庁長官又は県知事の裁量により、いわば右表彰の副賞的なものとして恩恵的に授与されるものである。

然るに、亡岡林らは、消防組織法上の消防団員等の身分を有しないのであるから、もともと同人らの遺族に賞じゆつ金の支給を受けさせるために必要な前記各表彰を受ける機会がなく、したがつて、同人らの遺族が賞じゆつ金の支給を受けることもあり得ないわけである。のみならず、前記のように賞じゆつ金は、消防庁長官又は県知事が、それぞれの裁量に基づき支給するものであるから、亡岡林らの遺族が被告国及び被告県に対し賞じゆつ金支払請求権を取得する理由は全くないものといわなければならない。

なお、原告三名は、賞じゆつ金の支給に関して亡岡林らと公設の消防団員等との間で異別の取扱いをすることは、憲法一四条の精神に照らして許されないというが、前示のような賞じゆつ金の性質に鑑みれば、何ら憲法一四条の精神に反するものとはいえない。

2次に、原告三名は、亡岡林らの遺族に対し賞じゆつ金と同額の金員が特別ほう賞金として支給されるべきであると主張するのでこの点について検討する。

前記第一の事実及び第二の一の事実、<証拠>によれば、次の事実を認めることができ、右認定を左右するに足りる証拠はない。

即ち、公設の消防団員等以外の民間の協力者(私設消防団員を含む。以下同じ)については、前記消防表彰規程が適用されないところ、本件災害の規模及び程度が空前であり、かつ、民間の協力者が真摯に協力していたのは厳然たる事実であり、しかも民間協力者の犠牲者数が三〇名以上もあつたこと等から、政府が右の諸事情を考慮し、民間協力者の犠牲者らに対しても、閣議決定をもつて自治大臣の特別表彰としてその功労を彰することとするとともに、その遺族に一律金一五〇万円宛の金員を特別ほう賞金として支給する旨決定し、同時に被告県及び被告町に対しても右同様の処置をとられたい旨の行政指導をなした結果、被告県及び被告町も、右の例にならい、一律金一五〇万円宛の金員をそれぞれ特別ほう賞金として支給することにしたものである。

右認定事実によれば、特別ほう賞金の支給は、本件災害の規模及び程度、民間協力者の協力の実態とその犠牲者の多さ等の諸事情を考慮し、被告国、同県、同町が、それぞれ特別に民間協力者の功労を称えてこれを彰するとともに特別にほう賞金を支給する旨の政策決定をした結果によるものであることが明らかであり、そうであれば、亡岡林らの遺族が、右支給額と公設の消防団員等の遺族に支給された賞じゆつ金の額との差額につき、さらに特別ほう賞金の支払請求権を取得するいわれのないものであることもまた明らかであるというべきである。

なお、原告三名は、特別ほう賞金の金額が公設の消防団員等の遺族に支給された賞じゆつ金と同一でないのは、憲法一四条の精神に照らして許されないというが、前示のような特別ほう賞金の性質とそれが支給されることになつた経緯に鑑みれば、何ら憲法一四条の精神に反するものとはいえない。

三よつて、原告三名が請求原因三項において主張する被告国及び被告県に対する金員の支払請求はいずれも理由がなく棄却を免れない。

第三次に、まず、被告町に国賠法一条の責任がある旨の原告らの主張(請求原因五項)について判断する。

一  本件災害の発生に至る経過とその概要

<証拠>を総合すると左記の諸事実が認められ<る。>

1  本件崩壊地付近の概況

本件崩壊前における本件崩壊地及びその山麓付近の概況は、別紙「繁藤地区山崩れ災害現場原形見取図」(丙一号証二四ページにおける同表題の見取図に基づく。以下「別紙見取図」という)記載のとおりである。

即ち、本件崩壊地は、斜面の傾斜角度四〇度前後の急傾斜地であり、その山麓には、同斜面を背にして民家が一一戸存在し、その民家の南側に面して国道三二号線が東西に走り、さらにその南側を国鉄土讃線が通り(右崩壊面の西南西に国鉄繁藤駅駅舎がある)、さらにその南側には穴内川(吉野川支流)が流れている。

2  集中豪雨の発生とその状況等

本件災害の発生した繁藤地区は、もともと、一九三一年から一九六〇年までの平均年間降雨量三三八九ミリメートル(以下、単に「ミリ」という)という多雨地帯ではあるが、本件災害前日の七月四日の午後から激しい集中豪雨に見舞われ、同日の午前九時から翌七月五日午前九時までの日雨量は、741.5ミリ(測定地点は、本件崩壊地より約一〇〇メートルの所にある土佐山田町繁藤支所)という測定開始以来最高の日雨量を記録し、本件災害当日である七月五日の午前四時から五時までは六二ミリ、同五時から六時までは95.5ミリ、同六時から七時までは九五ミリ、同七時から八時までは七五ミリ、同八時から九時までは58.5ミリという各時間雨量を記録し、まさに未曽有の集中豪雨であつた。ちなみに、その豪雨のすごさを「エンピツのような太さの雨」と形容した住民の声を当時の新聞は載せている。

七月四日一二時から本件崩壊直後の七月五日一一時までの各時点における時間雨量及びその間の累積雨量を図示すると、別紙「時間雨量及び累積雨量図」記載のとおりとなる。これによれば、本件崩壊地に第一回目の小崩壊が発生した頃である七月五日午前六時における累積雨量は五一三ミリ、本件崩壊直後の同日午前一一時におけるそれは七八一ミリとなつている。

そして、この間数回にわたり、高知地方気象台より各種の警報、注意報、情報が発せられているが、ちなみに、五日午前七時一五分には、大雨警報、洪水警報、雷雨注意報が発せられ、「梅雨前線の活動が引き続き活発で、再び雷を伴つた俄雨が降つており、すでに局地的に五〇〇ミリを越えた所もあります。今後さらに二〇〇〜三〇〇ミリの雨が降る所もあり、特に中部から北東部の山間部で強く降るおそれがあります。このためこの地方では河川が増水し、氾濫するおそれがあります。又崖崩れ、山崩れがおこるおそれがありますので厳重に注意して下さい。」とあり、また、五日午前九時四五分には、大雨情報第二号が発せられ、「昨日から県中部及び北東部に降り始めた強い俄雨は一時弱まつたが、今日早朝から再び強まつています。室戸岬レーダーによると引き続き強い雨雲が県北東部から西南西にのびています。この状態はしばらく続きますので、山崩れ、崖崩れ、低い土地の浸水に十分注意して下さい。特に中部から北東部の山沿い地方では厳重に警戒して下さい。今朝九時までの各地の雨量は次のとおりです。天坪(繁藤地区のこと)七四一ミリ……」となつている。

3  本件災害の発生に至る経過

(一) 七月五日午前六時頃(本3項における記述は、すべて七月五日のことであるので、以下には単に時刻のみを示すこととする)、別紙見取図記載の「伊藤重子」方裏において土砂が家の中に流入して危険であるとの通報が、土佐山田町消防団繁藤分団長小野寺聖宅にあり、同分団長は、直ちに分団員を非常召集すべく有線放送の依頼をするとともに、サイレンを鳴らし、同時に消防本部に応援を要請した。

連絡を受け、土佐山田町消防署から野口消防署次長ほか八名、土佐山田町消防団本部から浅井消防団長ほか一名が繁藤に向けて出発した。

そして、小野寺団長は、自動車で二名の分団員及び途中乗車の中西土佐山田町消防団副団長とともに現場に急行した。

繁藤消防分団員らは、逐次参集してきたが、消防長の命令を受けた中西副団長は、繁藤地区における消防活動の総指揮をとることとなり、とりあえず、流出した土砂や流れ落ちてくる雨水等が伊藤方家屋に流入しないようにするため、同家裏側に溜まつた流出土砂の取り除き、排水作業等の応急措置を施した後、伊藤方裏の崩壊箇所を調査するため裏山に登りはじめた。また、続いて小野寺分団長の命を受けた吉川団員も、同じく伊藤方裏の崩壊箇所の状況を見るため裏山に登りはじめた。

(二) 右裏山に登つている途中の、午前六時四五分頃、突然、別紙見取図記載の「近藤徳一」方裏で、高さ、巾とも約一二、三メートルの土砂崩れが起こり、右近藤宅の裏側は半壊となつた。そして、避難準備中であつた近藤徳一の妻、長女、長男は、一旦右家屋に閉じこめられたもののすぐ救出されたが、右近藤方の避難及び家財の搬出作業を手伝つていた臼杵団員は崩壊土砂のため生き埋めとなつた(以下、右災害を「第一次災害」と、右災害発生場所を「第一次災害現場」という)。

(三) このことを知つて中西副団長はすぐ山を下り(なお、同副団長の後から裏山に登つた吉川団員もすぐ下りてきた)、直ちに、右臼杵団員救出のため、本部に全消防団員の出動を要請するとともに、前記伊藤方裏の土砂崩れに続いて右第一次災害が発生し、しかも激しい豪雨が降り続いていたので再び土砂崩れの起こるおそれがあるものと考え、本件崩壊斜面山麓の民家の住人に対し、繁藤駅付近又は公民館(繁藤支所二階)に避難するよう勧告した。

要請を受けた消防署長は、町南部の災害を考慮して山田、片地の二分団を残し、他の全分団、即ち、佐岡、楠目、明治、岩村、植、新改の各分団に出動を命じた。出動した右各分団の総勢は合計一三〇名位にのぼつた。

一方、中西副団長は、国道三二号線が各所で土砂崩れのため通行不能となつていたことから、救援消防団員の到着に時間がかかるものと判断し、繁藤地区私設消防団に協力を要請した。また、有線放送や消防団員に聞いたりしてかけつけてきた一般地元住民に対し、作業内容を説明し、崩落土砂の取り除き、本件崩壊斜面山麓にあつた民家の家財の搬出等の作業に協力を求めた。

繁藤分団員及び協力中の地元住民らによる臼杵団員の救出作業は、激しい豪雨と再び小崩落があつたりして思うように進まず、近藤方の家屋は、土砂に押されて倒壊のおそれがあつたため、とりあえず木材で支柱を加える等の作業を施すことにし、午前七時三〇分頃右家屋の補強作業は終了した。

(四) その頃、野口消防署次長、浅井消防団長ら一行が現場に到着した。野口次長は、別紙見取図記載の「貨物上屋」付近に停車させた指揮車を通じて、消防本部と連絡をとり合う等の仕事に従事した。浅井団長は、崩土が多い(近藤方裏に堆積した土砂はほぼ人の背丈位あつた)うえに、救出作業現場が狭い(近藤方と伊藤方との間の空地は二メートルもなかつた)ので、このままでは救出作業に長時間を要し、また、作業員に危険を及ぼすおそれがあると判断し、中西副団長と相談のうえ、近藤方家屋を取り毀す方針を固め、所有者阿部智枝の了解をとるよう指示したが、同人との連絡はなかなかとれなかつた。

また、同団長は、同じく中西副団長と相談のうえ、吉川副団長、三木本部団長、吉川消防士長の三名に現場の警戒監視を命じた。但し、その内容は、吉川消防士長が、電柱或いは塀等に上つて第一次災害現場の救出作業の状況を注視すること、三木本部団長は国道東方上において、吉川副団長は国道西方上において、それぞれ第一次災害を発生させた崩壊斜面及びその付近を中心にして前記各土砂崩れが起きはしないか否か、再崩落により第一次災害現場で救出作業に従事中の人々や山麓の民家等に被害を及ぼすようなことがないかどうかを警戒監視させたというにとどまり、右三者のいずれに対する指示も、本件崩壊地が、場合によつては、第一次災害現場で救出作業に従事している人々のみならず、国道上に待機中の消防団員や地元住民らの生命、身体にも危険を及ぼす程度の崩壊(以下「相当の崩壊」ともいう)を起こすおそれもあり得ることを念頭において、そのような危険な兆候が認められないかどうかについて警戒監視をさせるというものではなかつた(つまり、浅井団長、中西副団長らは、国道上にいる者は安全であると、漫然と考えていたのであつた)。

午前七時五〇分頃から応援の分団が逐次到着をし始め、一般地元住民らの協力者等を含めると、一八〇名位の人々が集まつたが、救出作業現場は狭く、七、八人が入るのがせいぜいなので、一〇分位おきに交替で右作業を行い、他の消防団員らは、交替要員として国道上の南側のガードレール沿い等に待機していた。

(五) 午前七時五五分頃、横畠土佐山田警察署長ら一行が現場に到着した。同署長は、浅井消防団長より、付近住民の避難勧告措置はすでにとつている旨を聞いたが、念のため署員をして確認させた(その結果、三ないし四戸の住人がまだおり、その中には、「絶対につえやせん」等と言つて避難させるのに一苦労の者もいた)後、署員五ないし六名を臼杵団員の救出作業の支援と同作業現場前の人と車の整理に当たらせ、四名を国道上の東と西にそれぞれ二名ずつ配置して東進車、西進車の整理誘導に当らせ、二名を臼杵団員が遺体で発見された場合の検分手続のための観察に、次長ほか一名を連絡員として駐在所にそれぞれ配置した。

(六) 午前九時頃、消防本部より、町南部一帯、物部川流域が氾濫して危険であり分団を一部移動させる必要があるとの連絡があり、浅井団長は、まず明治分団を先発させ、次いで午前九時三〇分頃、岩村、植、楠目分団を移動させるとともに自らも後事を中西副団長に託して楠目分団とともに移動した。したがつて、以後現場における消防活動の総指揮は、再び中西副団長がとることになつた。

(七) 午前九時頃、近藤方家屋の所有者阿部智枝が現場に来合せたので、同人の了解を得て右家屋の取り毀し作業にとりかかつた。取り毀し後の廃材、土砂等の運搬用として大二製材所ほか一名からトラック二台の提供を受けた。

(八) 午前一〇時頃、たまたま現場付近の国道上の崩落土砂の除去作業を終えて帰途についた香川建設株式会社のショベルカー(小松三〇s)一台が通りがかつたので、臼杵団員の救出作業への協力を要請した。

そして、以後は、右ショベルカーにより崩落土砂等を国道上まで移し、国道上においてその土砂等を前記トラックに積み込むという作業を実施した。

(九) 午前一〇時三〇分頃、中西副団長は、これまでの経過から臼杵団員はすでに死亡しているとの判断の下に、同団員の遺体発掘後における処置についての準備を命じた。

また、その頃、新改川入野で二名が濁流にのまれて行方不明になつたとの連絡が入り、新改分団を同方面に移動させた。したがつて、残つた消防関係者は、数名の消防署員、消防団本部員のほか、繁藤、佐岡両分団員のみの総勢五〇名弱となつたが、私設消防団員その他の地元住民ら及び数名の警察官らを含めると、本件崩壊前には、依然として一〇〇名位の人々が作業に従事していた(但し、一般地元住民らの中には、救出作業等に協力していた人々のほかに、そうでない、いわば野次馬的な人もおり、亡伊藤重子は、第一次災害発生後に安全な場所への避難勧告を受けていたものであるのに、本件崩壊当時亡伊藤和正を背負つて本件崩壊地前の国道上にいたものである)。

(十) この間、本件災害当日の繁藤地区における消防活動の総指揮をとつた浅井団長(但し、午前七時三〇分頃から同九時三〇分頃までの間)、中西副団長らは、すでに臼杵団員が生き埋めになるという第一次災害が発生していたため、第二次災害が発生することのないようにそれなりに案じてはいたが、それは、第一次災害現場で救出作業に従事する消防団員らに対し、「気をつけよ。」「土が崩れてくる危険のある時はすぐに作業を中止せよ。」等と再三注意したり、前記のとおり((四)の中段)、極めて限定された範囲、程度の警戒監視をさせたのにとどまり、本件崩壊地が、場合によつては、第一次災害現場で救出作業に従事する人々はもとより国道上に待機している人々の生命、身体にも危険を及ぼす程度の崩壊を起こすこともあり得ることを念頭において、本件崩壊地の全体にわたつて、右のような危険が発生する兆候が見られないかどうかということについて注意を払つていた形跡は全く窺われず、右の点について警戒監視をする任務を誰にも明確に指示していなかつた。したがつて、また、右のような崩壊があるかもしれないことに備えて十分な避難体制を講じておくという措置もとつていなかつた。

(一一) ところで、本件崩壊地上では、午前六時頃に発生した第一回目の小崩壊以後、午前一〇時五五分頃に発生した本件崩壊時に至るまで、目撃現認されているものだけでも一〇回位の小崩が断続的に続いていたのである。

そして、崩落土砂の流出等のため、別紙見取図記載の「笹豊寿」「伊藤重子」「阿部智枝」「坂本稔重」「中西正」方の各家は、いずれも国道寄りに傾いてきていたことが目撃されている。

また、本件崩壊地には、標高三五〇メートル付近(山麓付近)並びに標高四〇〇メートル付近(追廻山の中腹付近)にそれぞれ地下水の湧水点があつたことが本件災害後の調査(乙九号証)により確認されているが、本件崩壊前に、少なくとも本件崩壊斜面の山麓付近からは大量の湧水が噴き出していたことが目撃されている、

(一二) 本件崩壊の五分余り程前、別紙見取図記載の「笹豊寿」方前道路上で停車し、救出現場から運搬すべき土砂等の溜まるのを待つていたトラックの運転手中西熨(以下「中西」という)は、右「笹」家の南側の軒と道路側沿いのブロック塀との間隔が、もともと一メートル以上あつたのに、一〇ないし二〇センチメートル位に狭まり、同家が国道寄りに傾いてきたのを認めて山崩れの危険を感じ、中西のトラックの前に停車し同様待機していた大二製材所のトラックの運転手坂本宗嗣に事情を話し、同人とともに国道上を東方にバックで退避し始めた。しかし、中西は、臼杵団員の遺体の一刻も早い取り出しをという空気が現場を支配していたことや、危険を感じたことを消防団員に話せば全体の士気に影響する等と考え、だまつて、ゆつくりバックした。

然るに、別紙見取図記載の「坂本伊勢松」方前付近まで退避した頃、本件崩壊斜面の山肌が見えるような感じを目撃して切迫した崩壊の危険を感じ、トラックから降り、前記坂本や付近にいた人々と共に国道をさらに東へ走つて逃げた。その頃、別紙見取図記載の「徳岡勇」方裏で高さ一〇メートル、巾二五メートル位の範囲で崩壊が起こり、「徳岡勇」方ほか一棟が被害を受けた。そしてその後間もなく本件崩壊が起こつたのである。

(一三) 中西が退避を始めて間もなくの頃、即ち本件崩壊の五分程前、第一次災害現場において、ショベルカーにより土砂の除去作業をしていた香川善六(以下「香川」という)は、右ショベルカーの運転席前方に見える裏山の土が全体に震動して動いているような状況にあるのを目撃し、同時に、右運転席斜前方斜め下付近にそれまで大量に湧水が噴き出しているのが見られたのにそれが急に止まつたことを現認し、これらの現象が現れれば山崩れの起こるおそれがあるという過去の経験から危険を感じて作業を中止し、直ちに現場を離れて国道上に出、付近に停車していたショベルカーを運搬してきた車の運転手にも退避した方がよい旨を告げて一緒に国道上を西へ別紙見取図記載「貨物上屋」前付近までバックで退避した。

しかし、香川もまた、中西と同じように、消防団員に危険を感じた旨を知らせず、だまつてゆつくりと後退したことと、たまたまその頃現場の土砂取り除きも大方進み、そろそろ臼杵団員の着衣が見えかかる頃であつたため、現場に居合せた消防団員らは、香川が危険を感じて退職したものとは全く気づかず、単に、ショベルカーでの作業は終り、いわゆる手掘りの段階になつたから香川が後退したものと考え、手掘りによる遺体の取り出し作業に全力を傾中することとなつた。

(一四) これより先、土佐山田町総務員甲藤栄一(以下「甲藤」という)は、上司の命により、出勤中の消防団員らに朝食としてパンと牛乳を提供するため、午前一〇時頃現地に赴き、繁藤駅構内の別紙見取図記載のガードレールの西の切れ端付近にパン一〇〇個牛乳一〇〇本を積んだ公用車を停車させた。そして、消防団員らは、それぞれ適宜同所にパンと牛乳を取りに来て食べていた。

ところで、甲藤は、右同所で第一次災害現場付近を眺めていたが、午前一〇時五〇分過ぎ頃、即ち前記香川が退避を開始して間もなくの頃、小崩落後の露出した地肌の上部付近から小石がバラバラと落ち出し、山肌が動いたような印象を受けて山崩れの危険を感じ、友人の山中慶祐が私設消防団員として救出作業に参加中で同人の妻が一人で別紙見取図記載の「山中慶祐」方にいたことから、同女に危険を知らせようと思い、右「山中」方に向つて走つた。右「山中」方までは約一五〇メートルの距離であつたが、脛の下辺の高さ位まで水が溜まり長靴に水が入つてくるような状況であつたため数分の時間を要した。甲藤は、走つているうちに、別紙見取図記載の「徳岡勇」方裏で小崩落があつたことを目撃し、間もなく、本件崩壊地全体が「どお!」というような音がするのを聞き、「山中」方まで来たときには、土砂がガードレールを超えて来ており、山中の妻には家の外から声をかけただけで、懸命に南に走り、土砂に追われながら穴内川に飛び込み、泥水の中でミキサーのようにもまれながら九死に一生を得た。

(一五) ところで、前記香川は、退避の途中、別紙見取図記載の「中西正」方前付近で一旦停止したが、その際同家の家屋が傾いてきたことを現認し、また、途中相当の土砂が国道上に流れ出してきていたことを認めた。そして、同人が、前記「貨物上屋」前付近まで退避し終つてから殆んど間をおかず、即ち午前一〇時五五分頃、本件崩壊地は、約一〇〇メートル巾でバラバラと土や小石が落ち出したかと思うと、樹木をゆらゆらと揺しながら波打つようにした後、中腹付近で水しぶきをあげ、高圧電線をショートさせて光を発し、雷鳴のような大音響とともに、高さ約九〇メートル、巾約一七〇メートルにわたつて大崩壊を起こし、約一〇万立方メートルの土砂を流出し、第一次災害現場での作業に従事し、もしくは国道上に待機していた消防団員らと地元住民らのうち、合計六〇名(但し、後記列車内にいた数人を含む)の人々を、山麓にあつた民家とともに丸呑みにしてしまつた。その崩落土砂の流出の勢いのすさまじさは、豪雨のため発車を見合わせ繁藤駅に停車していた高松行き上り国鉄快速列車の前三両を押し流し、先頭の機関車(DF五〇四五号)は穴内川を超えて対岸まで押し飛ばされるとともにその残骸が完全なスクラップ状態となるほどであつた。

(一六) 以上のとおり、本件崩壊の五分余り程前にまず中西が、次いで香川が、それぞれ自ら山崩れの危険を察知して退避を開始し、次いで間もなく甲藤が同じく山崩れの危険を感じてその旨を知らせに友人宅に向けて走り出し、その後数分経過後に本件崩壊が起きたわけであるが、この間、消防活動の総指揮をとつた中西副団長は、何ら退避命令や避難勧告も出さなかつた。

そのため、助かつた人々は、中西や香川のように事前に自ら危険を察知して退避した者のほか、比較的逃げ易い位置におり、かつ、本件崩壊が始まつてから、自ら、或いは誰からともなくあがつた「つえるぞ!」との叫び声によつて素早く異常に気づき必死に逃げた人々のみであり、多くの人々は本件崩壊の犠牲になつてしまつたのである。

二本件災害当日における消防活動を指揮した中西副団長らが、公権力の行使に当たる被告町の公務員であることは、当事者間に争いがない。

三そこで、中西副団長らが、その職務上義務を懈怠し、右義務懈怠に基因して本件災害が発生した旨の原告らの主張について検討する。

1消防組織法一条は、「消防は、その施設及び人員を活用して、国民の生命、身体及び財産を火災から保護するとともに、水火災又は地震等の災害を防除し、及びこれらの災害に因る被害を軽減することを以て、その任務とする。」と規定し、「消防」が国民の生命、身体及び財産を火災その他の災害から守る責務を有することを明らかにしている。したがつて、「消防」は、豪雨、山崩れ等により生ずる災害に対しても、事前に災害発生の直接的な原因となるようなものの除去を行い、或いは警戒監視、避難措置を講ずる等の方法により災害の発生の防止に努めるとともに、一旦災害が発生した場合には、その被害の拡大の防止及び縮小を図る任務を有するわけである。

2ところで、前認定のように、本件消防活動は、午前六時頃土砂崩れが発生して伊藤方が危険であるとの通報により出勤開始されたものであるが、繁藤地区はその前日の午後より激しい集中豪雨に見舞われ(出勤開始時の午前六時における累積雨量は五一三ミリ、本件崩壊直後の午前一一時におけるそれは七八一ミリという未曽有のものであり、高知地方気象台においても各種の警報、注意報、情報を流してその点を明らかにし、併せて山崩れ等に対する注意を喚起していた)、そのため、地下水の供給が極端に増大し、急傾斜地は、地盤のせん断抵抗力を低下させ崩壊の危険を増大させていたのである。本件消防活動は、このような豪雨時及び豪雨直後における、しかも急傾斜地の山麓においての活動であるから、右消防活動の指揮に当たつた中西副団長らにおいては、当然相当の崩壊があり得ることも念頭において、前記1記載の「消防」の任務に鑑み、付近住民らの生命、身体等を崩壊の危険から守るため、何をおいてもまず、急傾斜地である本件崩壊斜面の状態の変化について、十分な警戒監視体制をしき、併せて周到な避難措置を講じておくべき義務のあつたことは明らかであるというべきである。

また、同時に、同副団長らは、同人らの指揮の下で右のように防災という危険な業務に従事する消防団員らの生命、身体の安全についても十分に配慮してやらなければいけないことも当然であるから、この観点からも、即ち消防団員らに対する関係においても、前記警戒監視、避難体制を講じておくべき義務を負つていたものというべきである。

殊に、本件災害当日においては、同副団長らの要請に基づき、同副団長らの指揮の下に、私設消防団員や、およそ消防教育訓練を全く受けたことのない一般地元住民らも救出作業に協力していたのであるから、同副団長らは、これらの人々の生命、身体の安全について十二分に配慮してやらなければいけないことは当然であり、この意味でも、同副団長らが前記警戒監視、避難体制を講じておくべき義務を負つていたことは明らかである。

3然るに、中西副団長らは、前認定のように、第一次災害発生後においては第二次災害が発生することのないようにそれなりに案じてはいたものの、本件崩壊地が、場合によつては、第一次災害現場で救出作業に従事する人々はもとより、国道上に待機している人々の生命、身体にも危険を及ぼす程度の崩壊を起こすこともあり得ることを念頭において、本件崩壊地の全体にわたつて右のような危険が発生する兆候が見られないかどうかということについて注意を払つていた形跡は全く窺われず、右の点について警戒監視をする任務を誰にも明確に指示していなかつた(なお、前認定のとおり、出勤した消防団員は、多い時には一三〇名位に、最終段階でも五〇名近くにのぼつたのであるから、十分な警戒監視体制をしこうと思えば、そのような体制をとるのに必要な消防団員の人数は十分すぎるほど確保されていたのである)。したがつて、当然のことながら、本件崩壊地の状態に何か異常な現象が生じていないかどうかについて、時々刻々その結果を指揮官の下に報告させ、万一の場合には速かに避難措置を講ずるという体制は全くとられていなかつたわけである。

4ところで、前認定の事実によれば、本件災害当日、本件崩壊地には、次のように種々の、崩壊の危険を示す兆候というべき諸現象が認められていたのである。即ち、

(一) 本件崩壊地上では、午前六時頃の第一回目の小崩壊並びに同六時四五分頃の第一次災害を発生させた小崩壊経由後も、本件崩壊時に至るまで、目撃現認されているものだけでも一〇回近くにわたり、断続的に小崩壊が続いていた(このことは、地盤が断続的に少しずつずれるため、その度ごとに地盤の不安定な部分に小崩落を生じさせていたことを示しているのである)。

(二) そして、右のように断続する小崩壊による崩落土砂の流出等のため、本件崩壊斜面山麓にあつた別紙見取図記載の「笹豊寿」「伊藤重子」「阿部智枝」「坂本稔重」「中西正」方の各家屋がいずれも国道側に傾いてきていた。

(三) 本件崩壊の五分余り程前には、中西が、「笹」方の家が傾いてきたのを認めて山崩れの危険を感じて退避を開始し、その退避途中に「山肌が見えるような感じ」を目撃して切迫した山崩れの危険を感じ、後は走つて逃げている。

(四) 次いで本件崩壊の五分程前には、香川が、裏山の土が全体に震動して動いているような状況にあること等を目撃し山崩れの危険を感じて退避を開始し、退避途中、「中西正」方の家が傾いてきたのを認め、また道路に大量の土砂が流れてきていたのを目撃している。

(五) 右香川が退避を開始して間もなくの頃、甲藤は、第一次災害現場の小崩落後の地肌が露出している部分の上部付近から小石がパラパラと落ち出したのを目撃し、山肌が動いたような印象を受けて山崩れの危険を感じ、その旨を知らせた本件崩壊地前の友人宅に向け走り出している。

等の諸現象が認められていたわけである。

5そして、いやしくも消防活動を指揮する立場にある者が、前示の豪雨の程度と右4記載の諸現象を総合して考えた場合には、右諸現象が明らかに引き続いて相当の崩壊が起こることを示す兆候であるという認識をもつことは十分可能であるというべきである(現に、中西、香川、甲藤らは、危険を察知して然るべき行動を開始している)。

したがつて、十分な警戒監視体制をしいていれば、遅くとも本件崩壊の五分程前には、右の諸現象の発現に気づき、同時に右の諸現象が示す危険を察知することができたはずであり、そして直ちに、臼杵団員の救出作業を中止し(なお、臼杵団員の生存は、かなり前から絶望視され、午前一〇時三〇分頃には遺体取出後の処置についての準備が命ぜられていたのであるから、救出作業は緊急を要するわけではなく、第二次災害の発生を防止するということを何よりも優先させなければいけなかつたものというべきである)、国道上待機中の消防団員らや地元住民らをも含め当時本件崩壊地前にいた全員に退避命令を出す等の避難措置を講じていれば、本件崩壊まで五分位の時間があつたのであるから、本件災害の発生は防げていたものと考えられる(なお、前認定のとおり、亡伊藤重子は、第一次災害発生後に安全な場所への避難勧告を受けていたものであるのに、本件崩壊当時亡伊藤和正を背負つて本件崩壊地前の国道上にいたものであるが、一旦避難勧告を出した者についても、その者が崩壊の危険の切迫した本件崩壊地前にいたものである以上、これを退避させるべき義務があることは当然である)。

6然るに、中西副団長らは、前記3のように、十分な警戒監視体制をしいていなかつたため、右のように崩壊の危険を示す前駆現象が明らかに発現しているのに、これに全く気づかず、或いは単に漫然とこれを見過ごしてしまい、本件崩壊地前には一〇〇名位の人々がいたのに、最後まで、何ら退避命令を出す等の避難措置を講じなかつた。その結果、六〇名の人々が生き埋めになつて死亡するという本件災害を発生させてしまつたのである。

7以上によれば、本件災害当日における消防活動を指揮した中西副団長らが、その職場上の義務を懈怠し、右義務懈怠に基因して本件災害が発生したことは明らかであるというべきである。

四そうすると、その余の請求原因(請求原因五項の1)について判断するまでもなく、被告町が国賠法一条に基づき原告らの被つた損害を賠償する責任を負うことは明らかである。

第四進んで、被告県が国賠法一条の責任を負う旨の原告らの主張(請求原因四項)について判断するが、そのうちまず、県消防学校長が消防職員等に対し、県消防学校において防災に関する教育と訓練を実施すべき義務を懈怠した旨の主張(請求原因四項の2の(一)及び(二))から検討することとする。

一「消防」は、前記第三の三の1に述べたように、国民の生命、身体及び財産を災害から守るという任務を有する。そして、このような防災という職務は、極めて重要な責務であるが、その職務の性質上、常に危険と困難を件う。したがつて、防災業務に従事する消防職員等は、防災に関する知識及び技能の修得につき自ら不断の努力をすべきことはもちろんであるが、それと同時に、消防の組織の維持、運営を掌る者は、消防の責務を達成するため、また右責務の達成のため消防活動に従事する消防職員等が安全にその職務を遂行できるように配慮するため、当該消防組織が、組織全体として、時代に即応した防災に関する知識及び技能の修得並びに向上を図ることができるように、当該消防組織を支える消防職員等に対し、絶えず必要な教育と訓練を組織的に行うようにしなければならない義務があるものというべきである。

二ところで、消防組織法は、市町村消防の原則を採用し(同法六条)、市町村消防は、市町村長がこれを管理する(同法七条)と規定しているから、市町村長が当該市町村消防組織の維持及び運営を掌る最高責任者ということになり、本来であれば、消防職員等の教育訓練についても、市町村長がその責任を負うべきところであるが、実際に各市町村が消防学校を設置して消防職員等の教育訓練に当たることは、教育訓練の対象人員が少なくなることや、施設設備の整備や優秀な教官の確保が困難である等のため適当でないので、市町村の補完行政(地方自治法二条六項参照)として、消防組織法は、原則として都道府県が消防学校を設置し、消防職員等の教育訓練に当たるものとした(同法二六条)。

三これを受けて、高知県でも、昭和三五年に高知県消防学校を設け、県下の消防職員等の教育訓練を行つている(高知県消防学校規則。高知県行政組織規則六七条、六八条)。

ところで、<証拠>によれば、高知県は、県土の九〇パーセント近くを山地が占め、その地形も急峻で地質構造が複雑脆弱であるため、地すべりや崩壊の危険箇所が非常に多く存在し(その明細は、乙三号証中の「災害危険予想箇所一覧」のとおりである)、しかも台風の常襲地帯であることとも相まつて、しばしば、台風や集中豪雨等を誘因とする地すべりや崩壊等が発生し、それにより多大の被害を受け、全国でも有数の災害県となつていたことが認められる(高知県が全国でも有数の災害県であることは当事者間に争いがない)。

したがつて、高知県下において消防防災活動に従事する消防職員等としては、地すべり、崩壊等による災害に対処するための基礎的な教育訓練を十分に受け、それに関する知識及び技能を習得しておくことが必要不可欠であつたものといわなければならない。

なお、消防組織法二六条四項は、「消防学校の教育訓練については、消防庁が定める基準を確保するように努めなければならない。」と規定し、消防庁は、昭和四五年三月一八日同庁告示第一号をもつて「消防学校の教育訓練の基準」を定めているが、これら、消防事務の複雑化に伴い、教育訓練がますますその重要性を高めていることに鑑み、各都道府県ごとの格差是正を図る等の見地から、一応の基準を定めたものにすぎず、各都道府県消防学校としては、右基準が直ちに要求していない事柄であつても、それぞれその地域の特性に応じて必要不可欠と思われる教育訓練は、これを実施しなければならないものというべきであり(なお、右基準一二条は、教育訓練の種類又は科若しくは課程の種別ごとの総時間数を下まわらない範囲内において、教科目別時間数を増減することができると規定し、昭和四六年四月一九日消防庁告示第一号「消防学校の施設、人員及び運営の基準」一二条、一三条は、学校長が、消防学校における教育訓練実施計画並びに教授細目を定める旨規定している)、ただ漫然と消防庁の基準に従つていれば事足れりというものでないことは当然である。

四そこで、以下、高知県消防学校において、右の点について十分な教育訓練が行われていたか否かについて検討する。

<証拠>を総合すると、次の事実が認められ<る。>

即ち、県消防学校において行われる教育訓練の種類は、前記消防庁の基準に従い、消防職員に対するものにあつては、初任教育、専科教育、幹部教育及び特別教育と、消防団員に対するものにあつては、普通教育、専科教育、幹部教育及び特別教育とされ、それぞれの教科目及び時間数が定められていたが、肝心の地すべり、崩壊等による災害に対処するための消防活動のあり方といつた問題については、正式のカリキュラムは組み込まれておらず、また、特にその点について明確に講義で触れるということもなかつた。

もつとも、昭和四五年三月に、「斜面の崩壊による災害対策」という項目の解説を加えた「防災活動の手引」(乙一四号証)という縦約一七センチメートル、横約一二センチメートルの冊子を高知県防災課で発行し、これを消防学校の生徒全員に配付したことは認められるが、右冊子における「斜面の崩落による災害対策」という項目は、一〇九ページから一一三ページ中頃までのわずか五ページ弱の間に簡単な記述が書かれているのみであり、仮にこれを生徒が自習により読んだものとしても、この記述自体から直ちに地すべり、崩壊等の発生機構やその発生の前駆現象たる諸現象の意味を理解し、実際の消防活動に役立てるということは至難のことと思われる。

しかも、右冊子の記述中には、後記のように、地すべり、崩壊の前駆現象として、かなり決定的なものといわれ、本件においても目撃されている「湧水が急に止まつた」ことをその前駆現象として記載していないのである。

高知県が、極めてしばしば斜面の崩壊による災害に悩まされ、消防も、それに応じていつでも右の災害に対処するべく出動する準備をしておかなければならなかつたことに鑑みれば、少なくとも最低限度の要請として、県下各消防組織の、実際に消防活動を指揮し、或いはそれを直接補佐するような立場にある者にだけは、右の点について正式にカリキュラムを組み、砂防学の専門家に講義を依頼する(なお、前記「消防学校の施設、人員及び運営の基準」九条は、「教員は、消防に関する相当の学識経験を有するものでなければならない。」と規定している)等して、必要な教育訓練を徹底し、もつて消防の責務の達成と二次災害の防止に遺憾なきを期することは必要不可欠のことであつたと思われるのに、これが何らなされていなかつたのは、県消防学校における教育訓練の責任者である県消防学校長(前記のとおり、「消防学校の施設、人員及び運営の基準」一二条、一三条は、学校長が、消防学校における教育訓練実施計画並びに教授細目を定める旨規定している)が、その職務上の義務を懈怠したものといわざるを得ない。

五県消防学校長が、右のように地すべり、崩壊等による災害に対処するための教育訓練を実施すべき義務を懈怠したことは、本件災害当日における消防活動に対しても次のように大きな影響を与え、その結果本件災害の発生をもたらしたのである。

即ち、

1本件災害当日における消防活動の指揮をとつた中西副団長らは、前記第三の三の2及び3に述べたように、本件崩壊地が、場合による相当の崩壊を起こすおそれがないかどうかについて細心の注意を払い、十分な警戒監視体制をしくという、地すべり、崩壊等による災害に対処する消防活動としては、最も基本的なことを疎かにしたことが認められるわけであるが、このことは、同副団長らが、消防学校において右のような災害に対処するための教育訓練を十分に受けず、そのため、地すべり、崩壊等の発生機構が、その発生前に必ず伴う前駆現象等についての理解が十分でなかつたことにもその一因があるものというべきである。

2また、中西副団長らは、前記第三の三の4ないし6に述べたように、引き続いて相当の崩壊が起こる危険の兆候であると思われる諸現象が現れていたのに、これに気づかず或いは漫然と見過ごしてしまつたわけであるが、このことも、前同様に、中西副団長らが消防学校において前記の点に関する十分な教育訓練を受けていなかつたことにその一因があるものというべきである。

3そして、前記第三の一の3の(一一)及び(一三)に認定した事実によれば、本件崩壊前には、(1)本件崩壊地の山麓付近から湧水が大量に噴き出していたこと、(2)しかも、本件崩壊の五分程前には右のように大量に噴き出していた湧水が急に止まつたこと、がそれぞれ認められるわけであるが、これらの現象は、まさしく崩壊の前駆現象としての意味をもつものであり、殊に、右(2)の現象は、地盤がずれてそれまでの水みちが急に塞がれて起こる現象であるから、間もなく崩壊が起こる蓋然性が極めて高く、まず崩壊が起こるといつてもよい決定的な前兆であるといわれている。

しかしながら、これらのことは相当専門的な事柄に属し、地すべり、崩壊等に関して基礎的な教育を受けていなければ、その意味を理解するのは至難のことと思われる。したがつて、中西副団長らが、右(1)、(2)の現象に気づかず或いはこれを漫然と見過ごしてしまつたのもやむを得なかつたものといわざるを得ない。

しかし、逆に、もし右の点について教育訓練を受けていたとしたら、中西副団長らも、十分な警戒監視体制をしくとともに、極めて確実で明確な崩壊の前駆現象(殊に右(2)の現象)たる右の諸現象を的確に察知し、直ちに避難命令を出す等の措置を講じ、もつて本件災害の発生を防ぐことができたものと考えられる。

六県消防学校長が、公権力の行使に当たる被告県の公務員であることは、当事者間に争いがない。

七そうすると、その余の請求原因(県知事に、県消防学校における防災教育訓練を実施すべき義務懈怠があつたか否か、及び管下の市町村、消防機関を指導すべき義務懈怠があつたか否か、並びに請求原因四項の1及び3)について判断するまでもなく、被告県が国賠法一条に基づき、原告らの被つた損害を賠償する責任を負うことは明らかである。

第五以上によれば、本件災害は、被告県及び被告町の各不法行為(独立的共同不法行為)に基因して発生したことが明らかであり、同被告らは、国賠法一条に基づき、各自、原告らに対し、本件災害によつて生じた原告らの損害を賠償する責任があるものといわなければならない。

そこで、以下、原告らの被つた損害について判断するに、前記第一の事実、並びに原告岡林糸美、同西岡恒、同伊藤千恵子がそれぞれ被告ら主張の葬祭費、昭和五六年一一月分までの遺族補償年金及び特別ほう賞金を受領していること、原告らが本件訴訟の追行を原告ら訴訟代理人に委任したこと、原告らがそれぞれ被告ら主張の見舞金を受領していることの各事実間に争いがないのでこれらの事実、<証拠>を総合すると、原告らの被つた損害は左記のとおりであると認められ、左記認定を左右するに足りる証拠はない。

一  原告岡林糸美、同岡林功について

1亡岡林勝美の逸失利益 金二三三九万一〇四三円

亡岡林勝美は、本件災害当時、四八才の健康な男子で林業に従事し、年額少なくとも金二八六万三一八一円の収入を得ており、本件災害により死亡しなければ六八才までの二〇年間は稼働してその間右年収を下まわらない収入を得ることができたものと認められ、これから四〇パーセントを生活費として控除し、ホフマン方式により右二〇年間利息を控除してその逸失利益を算出すると、次のとおり金二三三九万一〇四三円となる。

2863181円×60/100×13.616=23391043円

2亡岡林勝美の慰謝料 金六〇〇万円

亡岡林勝美が、三人家族の生活を支える大黒柱であつたこと、臼杵団員の救出作業に協力中に本件災害に遭遇したこと、被告町が、本件災害後町葬を主催して殉職、殉難者に対し哀悼の意を表し、その後も現在に至るまで毎年慰霊祭を挙行してその冥福を祈願してきたこと、本件災害発生の時期とその態様その他本件に現れた諸般の事情を考慮すると、亡勝美の受けた精神的苦痛を慰謝するには金六〇〇万円をもつて相当とする。

3相続

原告岡林糸美は亡岡林勝美の妻として右1及び2の各損害賠償債権の三分の一に当たる金九七九万七〇一四円を、原告岡林功は右勝美の子として三分の二に当たる金一九五九万四〇二八円をそれぞれ相続した。

4原告岡林糸美の支出した葬儀費 金三七万二六二〇円

原告岡林糸美は亡岡林勝美の葬儀費として金五〇万円を下まわらない支出をしたが、被告らの不法行為と相当因果関係があるのは金五〇万円の範囲内であるというべきであり、同原告は非常勤消防団員等に係る損害補償の基準を定める政令及び健康保険法に基づき金一二万七三八〇円の葬祭費の給付を受けたのでこれを右葬儀費の一部として充当すると、その残額は金三七万二六二〇円となる。

5損害の合計額

右1ないし4によれば、

(1) 原告岡林糸美の損害は合計金一〇一六万九六三四円

(2) 原告岡林功の損害は合計金一九五九万四〇二八円となる。

6損害の填補

(1) 原告岡林糸美は、亡岡林勝美の死亡を原因として昭和五六年一一月分までの消防遺族補償年金六八九万六八五一円を受領したので、この限度で同原告の損害は填補された。

なお、被告県及び被告町は、右原告が将来受給すべき年金額も損害額から控除すべきであると主張するが、将来の給付額はこれを控除することを要しないものと解するのが相当である(最高裁昭和五二年一〇月二五日判決、民集三一巻六号八三六頁参照)。

(2) 原告岡林糸美は、また、特別ほう賞金合計金四五〇万円の給付を受けたのでその限度で同原告の損害は填補された。

したがつて、前記5の(1)記載の同原告の損害はすべて填補されたことになる。

なお、原告らは、特別ほう賞金は損害填補の性質を有するものではないと主張するが、前示(第二の二の2)のそれが支給されるに至つた経緯とその金額等に鑑みれば、特別ほう賞金は、殉難者及びその遺族の精神的苦痛を慰謝しその損害を填補するために支給されたものと解するのが相当である。

(3) 原告岡林功は、被告町から見舞金六万六六六六円の交付を受けたので、その限度で同原告の損害は填補された。

なお、被告県及び被告町は、右原告に交付された見舞金六五万四〇〇〇円全額が損害額から控除されるべきであると主張するが、見舞金のうち、損害填補の性質をもつのは直接の不法行為者である被告町の支出した前示の金額に限ると解するのが相当である。けだし、厚生、建設両大臣や共同募金会からの見舞金は、その金額等に鑑みれば、純粋に殉難者への哀悼の念のみから支出されたいわば香典に類するものと認められるし、また、義援金は、各種の団体や個人が、純粋に殉難者への哀悼の念と遺族への憐れみや支援の気持をこめて出捐した寄付であると認められるから、いずれも、損害填補の目的や性質を有するものではないと解するのが相当であるからである。

7原告岡林功の弁護士費用 金六六万円

(1) 原告らは、本件訴訟の追行を原告ら訴訟代理人である土用嘉平、梶原守光、山下道子の三弁護士に委任し、昭和五六年一一月一四日、その報酬として本判決言渡後に、それぞれ認容額の一個に相当する金員を支払う旨約したことが認められる。

ところで、本件訴訟が、複雑困難でその追行に専門的な知識と技術を要し、弁護士に委任しなければ到底満足な訴訟活動をなし得ない事件であることは明らかであるから、右委任に伴う相当額の費用は被告らの不法行為と相当因果関係のある損害というべきところ、認容額とその諸般の事情を考慮すると、原告岡林功について金六六万円の弁護士費用を相当因果関係のある損害として認めるのを相当とするが、原告岡林糸美については全くこれを認めないのを相当とする。

(2) 被告町は、弁護士費用の請求は、原告らが損害及び加害者を知つた時から三年を経過した後になされたものであるからすでに消滅時効が完成しているのでその時効を援用すると主張するが、弁護士報酬についての消滅時効は、報酬契約がなされた時をもつて民法七二四条にいう損害を知つた時に当たるものと解すべきである(最高裁昭和四五年六月一九日判決、民集二四巻六号五六〇頁参照)ところ、原告らと原告ら訴訟代理人との間で報酬契約がなされた昭和五六年一一月一四日より三年を経過していない本件において未だ時効が完成していないことは明らかであり、被告町の抗弁は採用し得ない。

8結論

右1ないし7によれば、結局、

(1) 原告岡林糸美については、認容すべき損害が認められない。

(2) 原告岡林功については、金二〇一八万七三六二円(内金六六万円は弁護士費用)の損害が認められる。

したがつて、同原告の本訴請求金七三二万六六六六円(内金六六万円は弁護士費用)は全額認容されるべきである。

二  原告西岡恒、同西岡義夫、同西岡民江について

1亡西岡實の逸失利益 金一〇〇七万四〇九四円

亡西岡實は、本件災害当時、四三才の健康な男子で株式会社大二繁藤工場に勤務し、年額少なくとも金一〇五万三〇六四円の収入を得ており、本件災害により死亡しなければ六八才までの二五年間は稼働してその間右年収を下まわらない収入を得ることができたものと認められ、これから四〇パーセントを生活費として控除し、ホフマン方式により右二五年間の中間利息を控除してその逸失利益を算出すると、次のとおり金一〇〇七万四〇九四円となる。

1053064円×60/100×15.9441=10074094円

2亡西岡實の慰謝料 金六〇〇万円

亡西岡實が四人の家族の生活を支える大黒柱であつたこと、臼杵団員の救出作業に協力中に本件災害に遭遇したこと、被告町が本件災害町葬を主催して殉職、殉難者に対し哀悼の意を表し、その後も現在に至るまで毎年慰霊祭を挙行してその冥福を祈願してきたこと、本件災害発生の時期とその態様その他本件に現れた諸般の事情を考慮すると、亡實の受けた精神的苦痛を慰謝するには金六〇〇万円をもつて相当とする。

3相続

原告西岡恒は亡西岡實の妻として、原告西岡義夫、同西岡民江はいずれも亡實の子として、それぞれ右1及び2の各損害賠償債権の三分の一に当たる金五三五万八〇三一円宛を相続した。

4原告西岡恒の支出した葬儀費金三六万八四二〇円

原告西岡恒は亡西岡實の葬儀費として金五〇万円を下まわらない支出をしたが、被告らの不法行為と相当因果関係があるのは金五〇万円の範囲内であるというべきであり、同原告は非常勤消防団員に係る損害補償の基準を定める政令及び健康保険法に基づき金一三万一五八〇円の葬祭費の給付を受けたのでこれを右葬儀費の一部として充当すると、その残額は金三六万八四二〇円となる。

5損害の合計額

右1ないし4によれば、

(1) 原告西岡恒の損害は合計金五七二万六四五一円

(2) 原告西岡義夫、同西岡民江の損害はいずれも合計金 五三五万八〇三一円

となる。

6損害の填補

(1) 原告西岡恒は、亡西岡實の死亡を原因として昭和五六年一一月分までの消防遺族補償年金及び厚生年金保険法に基づく遺族年金合計金八九四万八二三九円を受領した。

したがつて、前記5の(1)の記載の同原告の損害はすべて填補されたことになる。

(2) 原告西岡義夫、同西岡民江は、被告町から見舞金各金三万三三三三円宛の交付を受けたので、その限度で同原告らの損害は填補された。

なお、被告県及び被告町は、右原告らに交付された見舞金各金三二万七〇〇〇円宛全額が損害額から控除されるべきであると主張するが、被告町の交付した金員以外の見舞金が損害填補の性質を有しないものであることは前示(一の6の(3))のとおりである。

7原告西岡義夫、同西岡民江の弁護士費用 各金三三万円

原告西岡義夫、同西岡民江について、各金三三万円宛の弁護士費用を被告らの不法行為と相当因果関係のある損害として認めるのを相当とする(原告西岡恒については全くこれを認めない)が、その理由と金額算定に際し考慮した事情は、前記一の7の(1)と同様であり、被告町の弁護士費用に関する消滅時効の抗弁が採用し得ないことも前記一の7の(2)に判示したとおりである。

8結論

右1ないし7によれば、結局、

(1) 原告西岡恒については、認容すべき損害が認められない。

(2) 原告西岡義夫、同西岡民江については、各金五六五万四六九八円(各内金三三万円は弁護士費用)の損害がそれぞれ認められる。

したがつて、右各原告の本訴各請求各金三六六万三三三三円(各内金三三万円は弁護士費用)は、いずれも全額認容されるべきである。

三  原告伊藤千恵子、同伊藤隆裕について

1亡伊藤芳の逸失利益 金二七一九万〇八七五円

亡伊藤芳は、本件災害当時、二九才の健康な男子で国際住宅商事有限会社の専務取締役として勤務し、年額少なくとも金二一二万六六九三円の収入を得ており、本件災害により死亡しなければ六八才までの三九年間は稼働してその間右年収を下まわらない収入を得ることができたものと認められ、これから四〇パーセントを生活費として控除し、ホフマン方式により右三九年間の中間利息を控除してその逸失利益を算出すると、次のとおり金二七一九万〇八七五円となる。

2126693円×60/100×21.3092=27190875円

2亡伊藤芳の慰謝料 金六〇〇万円

亡伊藤芳が、五人の家族の生活を支える大黒柱であつたこと、臼杵団員の救出作業に協力中に本件災害に遭遇したこと、被告町が、本件災害後町葬を主催して殉職、殉難者に対し哀悼の意を表し、その後も現在に至るまで毎年慰霊祭を挙行してその冥福を祈願してきたこと、本件災害発生の時期とその態様その他本件に現れた諸般の事情を考慮すると、亡芳の精神的苦痛を慰謝するには金六〇〇万円をもつて相当とする。

3原告伊藤千恵子、同伊藤隆裕の相続

原告伊藤千恵子は亡伊藤芳の妻として右1及び2の各損害賠償債権の三分の一に当たる金一一〇六万三六二五円を、原告伊藤隆裕は右芳の子として三分の二に当たる金二二一二万九二五〇円をそれぞれ相続した(なお、芳には、原告伊藤隆裕のほかに子供として伊藤和正がいたが、同人も本件災害で死亡時期の前後が不明であるから民法三二条の二により同時死亡の推定を受け、相互に相続しない)。

4亡伊藤和正の慰謝料 金三五〇万円

亡伊藤和正は、本件災害当時二才に満たぬ幼少にあり、今後永い人生が約束されていたにもかかわらず本件災害によりその生涯を閉じねばならなくなつたこと、同人は本件災害当時祖母の亡伊藤重子に背負われていたものであるが、右重子は、本件崩壊の数時間前に消防団及び警察関係者から安全な場所へ避難勧告を受けていたにもかかわらず、本件崩壊当時崩壊地前の国道上にいたものであること(前記第三の一の3の(三)、(五)及び(九)、被告町が本件災害後町葬を主催して殉職、殉難者に対し哀悼の意を表し、その後も現在に至るまで毎年慰霊祭を挙行してその冥福を祈願してきたこと、本件災害発生の時期とその態様その他本件に現れた諸般の事情を考慮すると、亡和正の受けた精神的苦痛を慰謝するには金三五〇万円をもつて相当とする。

5原告伊藤千恵子の相続

原告伊藤千恵子は、亡伊藤和正の母として右4の損害賠償債権を相続した(なお、亡和正には、父亡伊藤芳がいたが、同人も本件災害により死亡し、その死亡時期の前後が不明であるから民法三二条の二により同時死亡の推定を受け、相互に相続しない)。

6亡伊藤重子の慰謝料 金二五〇万円

亡伊藤重子は、本件災害当時六三才であり、孫の子守をしながら幸せな老後を送れるようになつたばかりであること、同人は、本件崩壊の数時間前に消防団及び警察関係者から安全な場所への避難勧告を受けていたにもかかわらず、本件崩壊地前の国道上にいたものであること(前記第三の一の3の(三)、(五)及び(九))、被告町が本件災害後町葬を主催して殉職、殉難者に対し哀悼の意を表し、その後も現在に至るまで毎年慰霊祭を挙行してその冥福を祈願してきたこと、本件災害発生の時期とその態様その他本件に現れた諸般の事情を考慮すると、亡重子の受けた精神的苦痛を慰謝するには金二五〇万円をもつて相当とする。

7原告伊藤隆裕の相続

原告伊藤隆裕は、亡重子の孫として右6の損害賠償債権を代襲相続した(なお、亡重子には、子として亡伊藤芳、孫として亡伊藤和正がいたが、いずれも本件災害によつて死亡し、その死亡時期の前後が不明であるから民法三二条の二により同時死亡の推定を受け、相互に相続しない)。

8原告伊藤千恵子の支出した葬儀費 金三六万六四四〇円

原告伊藤千恵子は、亡伊藤芳の葬儀費として金五〇万円を下まわらない支出をしたが、被告らの不法行為と相当因果関係があるのは金五〇万円の範囲内であるというべきであり、同原告は非常勤消防団員等に係る損害補償の基準を定める政令及び健康保険法に基づき金一三万三五六〇円の給付を受けたのでこれを右葬儀費の一部として充当すると、その残額は金三六万六四四〇円となる。

9損害の合計額

右1ないし8によれば、

(1) 原告伊藤千恵子の損害は合計金一四九三万〇〇六五円

(2) 原告伊藤隆裕の損害は合計金二四六二万九二五〇円

となる。

10損害の填補

(1) 原告伊藤千恵子は、亡伊藤芳の死亡を原因として昭和五六年一一月分までの消防遺族補償年金及び厚生年金合計一三八〇万一七九一円を受領したので、その限度で同原告の損害は填補された。

なお、被告県及び被告町は、将来の給付額も損害額から控除すべきであると主張するが、その主張が採用し得ないことは前示(一の6の(1))のとおりである。

(2) 原告伊藤千恵子は、また、特別ほう賞金合計金四五〇万円の給付を受けたので、その限度で同原告の損害は填補された。

したがつて、前記9の(1)の記載の同原告の損害はすべて填補されたことになる。

なお、原告らは、特別ほう賞金は損害填補の性質を有するものではないと主張するが、右主張が採用し得ないことは前示(一の6の(2))のとおりである。

(3) 原告伊藤隆裕は、被告町から見舞金六万六六六六円の交付を受けたので、その限度で同原告の損害は填補された。

なお、被告県及び被告町は、右原告に交付された見舞金六五万四〇〇〇円全額を損害額から控除すべきであると主張するが、被告町の交付した金員以外の見舞金が損害填補の性質をもつものでないことは前示(一の6の(3))のとおりである。

11原告伊藤隆裕の弁護士費用金一二三万円

原告伊藤隆裕について、金一二三万円の弁護士費用を被告らの不法行為と相当因果関係のある損害として認めるのを相当とする(原告伊藤千恵子については全くこれを認めない)が、その理由と金額算定に際し考慮した事情は前記一の7の(1)と同様であり、被告町の弁護士費用に関する消滅時効が採用し得ないことも前記一の7の(2)に判示したとおりである。

12結論

右1ないし11によれば、結局、

(1) 原告伊藤千恵子については、認容すべき損害が認められない。

(2) 原告伊藤隆裕については、金二五七九万〇五八四円(内金一二三万円は弁護士費用)の損害が認められる。

したがつて、同原告の本訴請求金一三五六万三三三三円(内金一二三万円は弁護士費用)は全額認容されるべきである。

第六以上の次第であるから、結局、原告岡林糸美、同西岡恒、同伊藤千恵子の被告国、同県に対する賞じゆつ金又は特別ほう賞金の各支払請求はいずれも理由がないのでこれを棄却し、原告らの被告県、同町に対する国賠法一条に基づく各損害賠償請求は、原告岡林功、同西岡義夫、同西岡民江、同伊藤隆裕の各請求がいずれも理由があるので全部これを認容し、その余の原告らの各請求はいずれも理由がないのでこれを棄却し、訴訟費用の負担について民事訴訟法八九条、九三条を適用し、仮執行の宣言は、同法一九六条を適用して主文第四項記載の限度においてそれぞれこれを付することとし、仮執行免脱の宣言は相当でないからこれを付さないこととして、主文のとおり判決する。

(山口茂一 増山宏 吉田肇)

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